イチローが黒田博樹博樹に残した引退の際のメールとは?
2016年シーズンが終わった日本プロ野球界。今年も数多くの名選手が引退しました。
その中でひときわ大きいインパクトがあったのは広島東洋カープ・メジャーリーグのドジャース、ヤンキースで活躍した黒田博樹博樹投手といえるでしょう。
黒田博樹投手は専修大学から1996年のドラフトで逆指名制度を活用し、広島に入団しました。入団当初はコントロールに難がありながら、150キロを超えるストレートを武器に広島で勝ち星を重ねていきました。
入団当初は勝ち星に恵まれず、4年目の9勝が最多でしたが、その後、2001年から3年連続2桁勝利をあげ、2004年シーズンは7勝におわるも翌2005年シーズンで自己最多の15勝・11完投というリーグトップの成績を上げます。
2006年シーズンに至ってはシーズン防御率1.85という驚異的な成績で最優秀防御率も獲得しました。日本では11年間の実働で6年間、セリーグ最多の完投数を挙げるなど、タフで完投能力の高い投手としてセリーグを代表する投手に成長しました。
2008年シーズンからはアメリカにわたり、ドジャースで4年、ヤンキースで3年の計7年間、メジャーの先発マウンドに立ち続けました。その間5シーズンで2桁勝利をあげ、2012年にはメジャー自己最多の16勝をあげています。
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バリバリのメジャーリーガーとして広島復帰
その間もローテーションを崩すことなく淡々と投げ続ける姿はメジャーのどの球団からも垂涎の的になりました。その後、ドジャースから年俸20億円のオファーを蹴って、年俸4億円で広島に復帰します。
黒田博樹は、自身がメジャーにわたるときの「最後は広島で引退する」という言葉を有言実行したのです。日本での通算勝ち星は124勝、メジャーでの通算勝ち星は79勝で、日米通算203勝を挙げ堂々の名球会入りを果たしたのです。
そんな黒田博樹にメジャーリーグ時代大きな転機がありました。それは今なおメジャーリーグで活躍を続けるイチローが、当時所属していたニューヨークヤンキースに移籍してきたことです。
その時までイチローと黒田博樹は同じチームだったことはなく、メジャーリーグでも、所属するリーグが異なっていたこともあり交流戦で対戦がある程度でした。
黒田博樹は、当時ヤンキースに移籍してきたイチローの決して準備に手を抜かない姿勢に感動し、イチローは黒田博樹の淡々とチームのためにローテーションで回り続ける姿に一目置き、二人は互いに尊敬しあう関係になっていったのです。
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黒田が最初に報告したのはイチロー
黒田博樹はメジャーリーグから広島に移籍する際、そして今回、引退する際の2回にわたって、最初に報告したのはイチローだったと明かしています。そして引退報告をイチローにした際、イチローから1通のメールが来たと明かしています。
「お疲れさん。ピッチングがみられるのは、あと多くて1回か2回か。応援しておく。」イチローらしく、引き際を悟った黒田博樹に対し、クールにエールを送っていることがわかります。
お互いを認め合っているからこそ、短いメールでの相手のことが分かり合える素晴らしい関係性といえるでしょう。その黒田博樹は、引退発表後も日本シリーズに登板し、第3戦で好投するなど、今なお現役でも十分通用するピッチングを見せてくれました。
メジャーリーグ、ドジャース時代に打球を頭部に受けた影響で、慢性的な手のしびれ、首のしびれなどがある中で、指名された場面できっちり試合を作る黒田博樹の姿勢は、日本球界に語り継がれるべきといえるでしょう。
引退発表後、広島東洋カープは黒田博樹の背番号15番を永久欠番にすることを発表しました。これは、鉄人と呼ばれた衣笠祥雄の3番・ミスター赤ヘル、山本浩二の8番につぐ広島で3つ目の永久欠番です。
黒田博樹は今後野球界から一度離れることが決まっているようです。しかし、我々野球ファンはいつの日か、監督「黒田博樹博樹」として広島の地に戻ってきてくれることを期待せざるを得ません。永久欠番の背番号15とともに。
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